京都の業務ソフトウェア・サプライ用品、オフィス用品インターネット通販企業・ミモザ情報システムの公式ホームページです。
株式会社ミモザ情報システム
TEL:075-595-2526
10:00~12:00、13:00~16:00

日々の親業

P150722
 
今年から妻が復職し、家事育児のシェア生活が始まった。
妻の仕事は激務で忙しく、二人とも実家は遠方で、自分自身も相当程度の家事を担わなければ回らないだろうと考えていた。
 
・第一希望の保育園に入るための政治的活動
・近所の知り合いネットワークづくり
・最新家電の導入による家事自動化の推進
・病児保育サービスや実家ヘルプ発動要件など異常時の事業(仕事)継続計画
(いわゆるBCP対策 笑)
予算を立て執行し、また様々な事前対策を手分けして講じ、ひとまず、これでやってみようと。
 
第一四半期を終え、結果。
惨敗。。。
結局、夫婦それぞれで2週間以上休んだ。
入院もあった。早退も遅刻も度々あった。親にも友達にも泣きついた。実際泣いた。
両立度、という観点からすると、かなり厳しい状況にあると感じる。
 
 

保育園に預ける初年度、免疫が弱く病気にかかりやすいとかさんざん聞いていた。
それでも、なんやかんや妻は時短勤務だから日々の生活は滞りなく進むだろうとか、ちょこちょこ休まざるを得なくても、土日休みなら最悪そこで辻褄合わせられるだろうとか…最悪、子守しながらでもできる作業はなんぼでもあるはずだとか。
 
今にして思えば甘い。甘すぎる。
 
例えば、病気にかかり免疫力が落ちていると、次々に新たな病気が襲い掛かり、影響が週単位月単位になりエンドレスで快復できないこと。
京都市の病児保育体制は希望者と枠のバランスが悪すぎて全くあてにならないこと。
実家の親に頼るのがどれほど気を遣うかということ。
近所のママ友も働いていること。
だいたい、病児は二次感染とか子供自身のストレスとか考慮すれば、預けりゃいいってもんでもないこと。
妻の仕事の特性から休むことそれ自体がクレームに直結してしまうこと。
そいういう色々を解決するために自分が動けば動くほど、自分の仕事が一向に進まないこと。
 
さんざんイメージし、想定していたにもかかわらず、現実の重み、手触りは、やはり体験しないと分からないのだ。
 
 

「復職しなければよかったじゃない」
「させなければよかったじゃない」
「せめてもう1年、2年」
もう、そうとしか言いようがない。
そうは言わないけど、周囲は思ってるよね。
でも、それは、やはり、そうであってはならない。
 
妻は妻で、熟慮の上決めたこと。
妻の仕事を理解し、妻の仕事への情熱を理解すればこそ、応援するのが自分の使命と本心で思ったのだから。
きれいごとっすけどね。
 
 

自分だって好き勝手なことやってきて、しかしそれを絶え間なく支えてもらった恩義があるのだ。
妻が今の仕事を夢に見て、努力と研鑽を続け、ようやく手にした過程を、私は傍でずっと見てきたのだ。
移り気で長続きせず、飽き性の私には到底なしえない、日々の小さな努力をコツコツと積み上げて大きな成果を得る軌跡を見せられ、感動したのだ。私もそうであらねばならないと。
日進月歩の職場から遠ざけ、女であることだけを理由に専業主婦という役割に囲い、なんとなく3歳までは家で見てよ、とは言えない。言う権利は私にはない。それが普通とか、大体みんなそうしているとか、関係ない。
 
それに、1年、2年先延ばしにしても、結局同じ現実に直面するだけなのだ。
早く預けることで発達段階に与える影響とか、そういうのだってちゃんと勉強して意思決定してる。
 
何より、私自身が妻に、思うままに生きてほしいと願ったのだ。
妻を甘やかすとか、自分がイクメン志向とかいうのとは全然違う。
家庭人として、職業人として、与えられ培ってきた自分の能力を、最大限に活かし生きて欲しいという、重みのある期待だ。
「自らがそうありたいから」、妻にもそうであってほしいのだ。
それを否定することは、私たち夫婦の関係を否定すること。
仮にそうなれば、彼女の夫は私でない方が良かった。
 
そしてこんなこと、どこにでも誰にでもある「夫婦二人の物語」は、他人には、例え両親でさえも、分かりっこないのだ。
カネが欲しいんじゃない。立場が惜しいのではない。世の流れがそうだから、じゃない。
自分たちが、そうありたかっただけ。その姿を見せて、育てようと決めただけ。
反面、こういった文脈を共有できなければ「復職しなければよかったじゃない」も真っ当な指摘であり、それは仕方のないことなのだけれど。
 

 
「そんなの親のエゴ」
「子供がかわいそう」
「きっと寂しがっている」
「そんなに小さいころから保育園に預けるなんて」
子育てをしていると、さまざまな人や立場から、いろんなことを言われる。
だいたいのことは、言われなくても解っている。
自分たちが、まさに今その葛藤に直面し、思い悩んでいる当事者だから。
 
「イクメンで偉いね」
「頑張ってるね」
「仕事が進まない」
「育児にかまける男は出世しない」
本音と建前に敏感な人間ほど、この絶望的な現実に腐心する。
どれほど最善を尽くしても、子供が産まれる前と同じ時間を捧げることができないのは、現実なのだ。
制約が課される前、自分の限界まで出し切ってた奴ほど、苦しむのだ。
 
プロの仕事人は、成果でのみ、その存在意義が測られる。
プロを自認するものは、少なからず自らそれを己に課し、自分と闘っている。
逆説的に捉えるならば、その成果とやらは「費やした時間や労力の総和」だけではないはずだ。
子育てもそうだ。一緒にいる時間の総量と、与える愛の総量は、必ずしも比例しない。
共に長く過ごすのと、輝く瞬間を重ねていくのと、良し悪しじゃないが、それぞれが一つのやり方だろう。
仕事が終われば飛んで帰り、うっとうしいほど抱きしめて、お話しする。それは実践できている。
 
 

仕事と育児の両立なんてどうせできやしない。
「両立」の定義それ自体があいまいだし、何がゴールかわからない。万人が納得する正解がない。
子が健やかに育ち、企業が発展し、納得のいく仕事ができて死んでいけるなら、それが両立か。
しかし、その基準は人の数ほどあるだろう。健やかってなんだ。発展とは?納得とは?
堂々巡りをするのはやめて、少しでもプラスに作用する(と思われる)打ち手を繰り出し続けるまでである。
 
制度や法律や時代や空気のせいにしない。
 
自分で決めて自分で踏み出した道は、自分で作り自分で切り開くしかない。
それが汚かろうが、曲がっていようが、後ろ指差されようが、そうやって生きていくほか仕方がない。
1mmでも手を動かす。1ミクロンでも物事を動かす。笑っちゃうけど、それしかできない。
 
だらだらと続く日常の中、生死の気配が希薄なこのご時世にあっても、親になるということは「命を背負うこと」、この真理は昔から何ら変わっていないはずだ。
大変で当たり前。育児それ自体が大仕事であり、片手間ではできない。
人に見せるために、見られるために、認めてもらうために子育てしてるんじゃない。
ましてや少子化対策、してるんじゃない。
綺麗じゃない。ファッションじゃない。うまくいかないかもしれない。
 
それでも、子供を持つことを選んだ。
 
最早仕事も育児も家事も全部一緒くた。全人格でことにあたらないと、到底かなわない。
ワークライフバランスとかどうでもいい。「バランス」などと引いた目で見ていられるか。
スマートにやろうと思うから苦しくなるのだ。
ただ与えられた一分一秒を、真剣に生きるのみだ。
生き恥を晒し、血を流し、頭を地面に擦り付けてでも、今を生き抜くのだ。
 
 

生き様を晒す。
飾らず、比べず、負けず、くじけず。
未だ物言わぬ息子よ、これが私の「日々の親業」である。
 
 

※書いてからしばらく寝かしていました。
改めて読んで、こんなにストイックでないと現代の共働き子育て(実家遠方核家族オプション付き)は成立しないのかと言われると、少し疑問も。
結局は何とかなる(と思う)(というか、最終的には周囲に助けられ、救い出される、…要は自分達だけでは完結しない)ので、これから子育ての人は、怖がらずに突っ込んでいってください。飛んで火に入るじゃないですけども。
子育ては基本楽しいです。人間の成長は面白く、興味深いし。日々新たな世界が開けていく感覚があります。
でも、時に覚悟が問われる場面がやってくる。その時、依って立つ確固とした信念が試される気がします。でないと、なんでこんな大変なことやってんだ自分、となるのでね…。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です