過日、災害ボランティアセンターの「事業報告会」と「被災地域の
代表者とその後を語るシンポジウム」参加の呼びかけがあり、
誰が行くんやろ…?と思いながらも、出かけていきました。
会場に入ってみると、なんとなく見覚えのある方々がずらり。
ボランティアバスに乗っていた面々が揃っていました。
(注↓これまでの経緯)
被災地ボランティアに行きました(陸前高田市)
再び、震災復興支援ボランティアに行ってきました。
思い返せば、「あの日」から11ヵ月もの時間が経とうとしています。
一周年の暁には、マスコミできっと多くの特集が組まれ、ネット上
でも話題を集める記事やコンテンツが多数制作されるのだろうと
思います。それが良いことなのかはよくわかりませんが、
悪いことではないでしょう。
しかし。今日、ひとときでも「あの日」のことを考えたかというと
そうではない。
「あの日」が遠ざかれば遠ざかるほどに、その記憶は薄れ、
着実に小さくなっていく。
あの時「何かしなければ」「何かしたい」と思っていた意識は薄れ、
今「あの日」が話題になるとすれば、自分の商売に対しその影響が
どうだったとか、近くの原発がどうだとか、少なくとも西日本に住む
私たちの日常の認識は、どう繕っても、その程度のものです。
別にそれが良いとか悪いとかを言いたいわけでもない。
むしろそれをただ情緒的に捉えたって何も生まれない。何の足し
にもならない。そのこと自体は、消えていった命に対する弔い
にもならない。
今、被災地では格差が生まれていると言います。
家を失ったか、否か。
職を失ったか、否か。
家族を失ったか、否か。
一時は皆が「復旧」という同じベクトルで動いていた被災者同士が、
時間が経つにつれて立場が変わり、罵り合い、傷つけあう。
「絆」という言葉の意味が、本当に分からなくなります。
「島は今、バラバラです。」
大島から来られたパネリストからそう聞かされ、暗澹たる気持ちに
なりました。例えば、努力して地場産業のカキの養殖を再開しても、
潮の流れから、原発の影響は免れない。実際に数値が出なくても、
風評には晒される。
放射能だけでなく、津波によって流れ込んだ陸の化学物質や重金属、
それに地震で起きた地盤沈降と、問題は山積。
補助金や補償金、寄付金だけでは、どうにもならないのです。
一時をそれでしのげたとしても、それを次の世代へ繋いでいける
のかということまで考えると。
しかし、食っていかなければならない。
上手くアピールして、全国から多額の資金を集めた人もいれば、
先に挙げたようなことを考え、どうすればいいかわからず、
動けずにいる人もいる。
その差は開き、妬みや迷い、焦りが渦巻く。
福島のパネリストは、原発事故後最大だった郡山のビックパレット
避難所の運営について語られました。
突然「カマが吹っ飛んだ」からと、着の身着のまま追い立てられた
人々の、『今も』続くあてどなき放浪の日々。昼間からなす術もなく、
ただ横たわるだけの大人たち。果てしなく携帯電話やゲームに
打ち込み続ける子どもや若者たち。風邪やノロウイルスのはびこる、
凄惨な避難所の風景。
そんなルールなき「収容所」に自治を根付かせ、かすかな希望を
見出す事のできる場へと変化させていく、現場でのリーダーシップや
その過程を伺っていると、決してそのようなテーマではないのに
「人間が生きるために必要なものは、そう多くない」ということを
感じてしまいます。
そこに軽薄な「同情」や「感情的な痛み」が入り込む余地は
ありません。圧倒的な現実に、背筋が凍りつくだけです。
事業報告会とシンポの後は、今回ボランティアに行った人間が、
思い出話をして旧交を温める場も用意してありましたが、
私はパスしました。
決してそのこと自体を否定する気はありません。
事実、一時はそういったネットワークを大切にしなければと考え、
その枠組み作りに動いたこともありましたが、立場や視点の
違いから、実を結びませんでした。災害ボランティアなんて、
私も誰も、しなくて済むならしたくなんてないのです。
何も起きなければ、必要性も何もないのですから。
しかし、この国に住む以上、「次」はあるのでしょう。
であるならば、きっと、その時も私たちは集まれる。
そう思っておきたい。
自立した個人が、誰にも訪れうる「災のある運命」を見据え、
しかし決してそれを悲観することなく、日々の暮らしの中で
心構えを養い、行動していく。
日本人皆がそんな風になる日は来ないと思うけれども、
少なくとも私自身は、そのように暮らしていければ、「あの日」の
記憶を無駄にせずにすむのではないかと思っています。
「京都の皆さんにお願いしたいことは、忘れないで欲しい、
ということです。それが、ふるさとをなくした浪江・大熊・
双葉町民の、悲痛な声です。これが最大のボランティアだと
思うのです」
パネリストの男性の訴えが、胸に残っています。
※2006年夏の旅で通った「富岡町」の風景がパソコンに
残っていました。
今、付近は原発10km圏内の警戒区域で立入禁止です。
何の変哲もない、日本の田舎の風景です。
この日の晩、食堂で知り合った浪江町の方の家に泊めて頂きました。
(京都から北海道へ向けて自転車で旅をしていたもので…)
彼らは事故後、避難所や知人宅を5箇所くらいを転々とされたそうです。
身近なところで、考えもしなかったようなことが起きています。
そして、今も、続いています。
※福島の避難所記は本になっています。
メディアに載らない、したたかに続いた避難所の日常を、
生活を、興味本位で構いませんので是非覗いてみてください。
社内(知り合い)の方には、私からお貸しします。
版元ドットコム(ネット書店)の商品ページへリンクしています