最近、新聞各紙で「震災瓦礫の撤去がほぼ完了」というニュースが報じられた。
私は会社の好意で休暇をいただき、8月26日から29日にかけて気仙沼市で再び瓦礫撤去のボランティアに参加したので、その時の様子をお伝えしたい。瓦礫を片付けることと復興はイコールではない。そもそも、「ほぼ完了」は「完了」ではない。
(※一回目の記事はこちら→)被災地ボランティアに行きました(陸前高田市)
気仙沼湾は三陸のリアス式海岸に位置し、入り組んだ海岸線が特徴的。震災前は天然の良港で、多くの魚が揚がる一方、湾内はカキやワカメ、ホタテの養殖場となっていた。風光明媚な地形と相まって「漁業」と「観光」が地元産業の二本柱であった。
気仙沼といえば3月11日の夜、陸上自衛隊のヘリから撮影された市街地の業火は記憶に新しい。これは津波でなぎ倒された港周辺の重油タンクから油が漏れ出し、それに引火して浸水した地域を焼き尽くしたもので、燃え残った油は今も海面を漂い、また海底に沈んだ重油は養殖業再開の大きな足かせになっている。
今回私達が入ったのは気仙沼湾内に浮かぶ離島・大島であった。フェリーで着いた港には木材の瓦礫の山が横たわり、どこからか漂う腐敗集が鼻につく。ここも震災の被害は相当のもので、津波は東西の港から駆け上がって島を二分し、本土とを結ぶフェリーと客船二隻は共に陸上に打ち上げられ交通は寸断。そして海面を伝って気仙沼から引火した油が漂着し、大規模な山火事に見舞われた。後に米軍が上陸し、「トモダチ作戦」を展開したことも知られる。
緑の真珠と謳われるほど、美しい大島。
中央の浜に瓦礫置き場が見える。
早速、地元青年団の指揮の下、港からほど近いOさんのお宅で瓦礫撤去作業が始まった。二階建ての住宅を総勢40名のボランティアと家主の奥さんで片付ける。作業を始めてすぐは、前回の現場(水田)に比べればその範囲が狭いのであっという間に片付くように思われたが、これが1時間経っても、午前の作業が終わっても、なかなか進まない。外観は保たれた家屋だが、3月11日から時間が止まったままの屋内は、ヘドロが積もり、天井は崩れ落ち、所々床が抜けていた。当たり前だが食品類はそのまま腐り、大型の家具や家電はことごとく転倒し、行く手を阻んだ。
その家財を一つ一つ外へ運び出し、細かく分別をし、瓦礫置き場へと搬出していく。大島は、島であるが故、瓦礫の搬出経路がフェリーに限定され、撤去に非常に時間がかかっている。さらに、本土の処分場へ運び込む過程で分別が課されている。家電、金属、ガラス、木材、石膏…あまりにも膨大な作業量で、目もくらむ。
昼下がり、それでも徐々に片付き始めた家を見るために、今は本土で親戚と暮らしているこの家の祖父母が子ども達(兄妹)を連れてやって来た。まだ小学生位の兄妹にとって被災はショックが大きく、震災後、家に近寄りたがらなかったそうだ。数ヶ月ぶりに見る我が家を、兄は静かに直視していたが、妹は落ち着かない様子で視線を定めず、周囲を動き回っていた。
作業開始当初、家主の奥さんからこの家は取り壊すことが決まったこと、既に大事なものは出してあるから屋内のものは全て処分していいということが改めて告げられていた。しかし、現場を仕切る青年団は写真や賞状などの記念品は別に分けるように指示をしており、「思い出品コーナー」に案内された彼女は、しばらくその場で立ち尽くし、取っておくべきものを仕分けしていた。
思えば、私達は他人様の家財をごみとして処分する役回り。自分の勝手な判断で、思いの詰まった(かもしれない)品を冷徹に淡々とごみ袋に放り込んでいくのだ。日々の暮らしを支えた湯飲み茶碗も、大破した神棚の破片も、家族を暖めた毛布も。
しかし、それは住人自身の力だけではできない作業なのだとも言われる。一つひとつのものの背景を思いながら、しかし、捨てなければならないものは捨てる。それが私達にできる、前に進む手助けの形なのだと思う。
翌日の昼過ぎに、撤去作業は完了した。取り出した家財は皆分別して海岸の仮置き場へ搬出した。
青年団と宿の人がフェリーを見送ってくれた。青年団は「おばか隊(=彼らの愛称)」と大書きした旗を振りながら「また来てください!」と叫び、甲板からは「また来るからな!」と返すやりとりが続いた。港周辺は地盤沈降が進み、丁度満潮で駐車場や桟橋の多くは浸水している。背後には腐敗臭に包まれた木材の瓦礫の山。私達はすぐに去る。彼らの日常はここで続く。船が見えなくなるまで手を振っていた。
例えば、島を出てサラリーマンになってしまえば、どんなに早く生活を再建できるだろう。家を捨て、土地を捨て、何が何でも糧を得て生きていくことを選んだ人間は既に大勢いる。あるいは、新たに借金を背負いながら、それでも再建へ向けて歩みだし、家を直し、漁船を直し、この地で歩んでいく覚悟を決めた人間もいる。しかし、未だ踏み出せない人も多くいる。
瓦礫置き場に行くトラックの中で話した青年団の男の子は私と同い年の26歳。祖父が築いたワカメの養殖施設を継ぐために働いてきた。それが全て流された。まだこれからのことは決まっていない。しかし、立ち止まってもいられない。彼は今日も島の瓦礫撤去に精を出す。一銭にもならない作業を続ける。当初、そんな仲間が50人いた。島の人は、そんな彼らのことを「金にもならない作業をよくやるわ」「ほんと、ばかでねぇとできねぇな」と言いながら、親しみをこめて『おばか隊』と呼ぶようになった。5ヶ月たった今、仲間は15人まで減った。終わりの見えない、それぞれの「復興」という格闘は続く。
気仙沼港に着くと、Oさん一家が揃って見送りに来てくれていた。奥さんが、涙ながらに話してくれた。家を片付けてくれたこと、励まされたことに感謝していること。自分たちだけではどうすることもできなかった「思い出」を取り出してくれて救われたこと。京都に戻ったら、家族との時間を大事にして欲しいこと。
そして、東日本大震災を忘れないでいて欲しいということ。
5ヶ月がたち、瓦礫の撤去は進んでいるが、決して終わってはいない。
その上で、所詮外部の人間ができることなどたかが知れている。40人が2日がかりでやっと家一軒片付けられるだけなのだから。私達が入らなければ重機が入っただろう。しかし、それでは思い出は取り出せなかった。子ども達に再び家と対峙する時間も与えられなかった。
そういう諸々も、単なる自己満足のおせっかいかもしれない。見る人や見方によってはそういう部分があることも否定しない。それでも、「困ったときはお互い様」というこの国の文化を支えるために、明日自分が被災したときに素直に支援の手を受け止められるように、動ける人間でありたい。そういう馬鹿な人間が大勢存在している京都でありたい。
注)写真撮影は現地住民感情に配慮し、原則禁止でした。
3点は山上から撮影した画像です。
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あふれそうな涙に耐えなければ失礼にあたると思いました。
・休暇を復興ボランティアに充てた貴方に・・・
・故郷で1銭にもならない「復興」作業に格闘する人々に・・・
『写真撮影が原則禁止!』そこに真実があるのですね。
何もできていない自分には言葉が見つかりませんが、ひとこと・・・ありがとうございました。
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>のとnoノートさん
週末の台風で大変なことになってしまいました。日本は本当に自然災害の多い国です。この国に住む以上、リスクは避けられないということでしょう。
だからこそ、災害ボランティアが社会的インフラのように整い、当たり前のように人々が参加して、支えあう営みが形作られることを希望するというか、そうなるように動きます。