太秦を「うずまさ」と読むのは、京都に住んでいると半ば当たり前ですが、その字面をしげしげと眺めてみると、なかなかの難読地名です。
太秦は現在の京都市右京区、市中心部の四条烏丸から西へ5~6km、クルマで20分ほど西へ行ったあたりです。
ひとくちに太秦と言ってもその範囲はかなり広く、北は丸太町通を超えた北側、南は四条葛野大路交差点の北西側、三菱自動車の工場までが含まれます。
駅名から見ても、JRの「太秦駅」と嵐電の「太秦広隆寺前(昔の太秦)駅」は地理的にかなり離れていますし、地下鉄「太秦天神川駅」ともなると、市民が持つ太秦のイメージより随分東側に位置しています。
太秦と言う地名は、当地を支配していた豪族である「秦氏」が、朝廷に納める絹をうず高く積んだことから「禹豆満佐=うずまさ」の称号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたものとされています。
ではなぜ、わざわざ「太」を「うず」と読ませるのかと言えば、「太」には「拠点」という意味があり、秦氏の拠点=太だったから太秦、という事なのだそうです。
合点のいくような、いかないような。
ちなみに同じ太秦の地名は大阪の寝屋川にもあり、遠く神奈川県の秦野市も秦氏に由来した地名のようです。当時の秦氏の影響力の大きさがうかがい知れます。
そんな太秦、やはり映画の町として有名です。
この地に最初の映画撮影所ができたのはおよそ100年前のこと。
まだ映画が「活動写真」と呼ばれていたその時代に、マキノプロ、阪東妻三郎プロ、片岡千恵蔵プロのほか、中小零細を合わせると数えきれないほどの撮影所が次々に産まれ、ひしめき合っていました。
やがて日活(後の大映)、松竹、東宝など大手の撮影所に集約されると、1950年代に時代劇の黄金期を迎えます。
広隆寺から帷子ノ辻に至る「大映通り商店街」では、撮影の合間に俳優達が闊歩し、大勢のスタッフたちのお腹や日常の用を満たすために沢山の食堂や商店が集まり活況を呈しました。
この時代、太秦は確かに『日本のハリウッド』だったのです。
残念ながら、今の大映通り商店街は、あまり活気があるとは言えません。
うずキネマ館や、スーパーフレスコの前の魔神像とか、見どころがあるにはありますが、ひいき目に見ても普通の、昔ながらの商店街です。
ちなみに、現代の太秦には東映と松竹の撮影所が存続していますが、特に後者は一般の方が入れる施設ではありません。
撮影自体も、カメラワークやCG、ロケハンを駆使すれば、必ずしも映画村ほどの大規模かつ大がかりなセットを必要とはしないようです。
あんなに輝いていた日本のハリウッドが勢いを失い、衰退していった様子は昨年の朝ドラ「カムカム・エブリバディ」に詳しいところですが、ひとことで言えば、娯楽の多様化、コンテンツの氾濫に伴って、作るのに手間暇のかかる時代劇の採算が合わなくなっていったのです。
そんな太秦にある一大観光スポット「東映太秦映画村」は、日本初のテーマパークとして、今から約半世紀前の1975(昭和50)年にオープンしました。
映画村はもともと東映京都撮影所の一部を改装して生まれました。
時代劇再興のために撮影所の一部を一般開放して客を呼び、それで得た資金を使って映画を作るという算段は、開業当初は功を奏し、大繁盛となりました。
実際、USJやディズニーと違って、施設をゼロから作るのではなく、元々ある
映画撮影用のセットを開放するわけですから、それほど元手を要しません。
少しずつ施設やアトラクションを拡張し、1990年代まで年間200万人を超える入場者数を記録し続けるなど結果的には大盛況となりましたが、肝心の時代劇のほうは惨憺たる有り様であったことは皆さまご存知の通り。
「カムカム」でも描かれましたが、大部屋俳優(役名や台詞の無いような低い位置づけの役者)達が出番を待ち鍛錬を続けるも、日の目を見ることなく夢破れていく悲哀は、見ていても辛いものがありました。
さて、昨年の秋、運動会の代休となった娘と一緒に平日の東映太秦映画村に行ってきました。
何十年かぶりに映画村を歩いて感じたことは、街並みのリアルさでした。
最近旧東海道を歩く機会があり、古い町並みとか、江戸時代の遺構などを目にする機会があったことから、そういうものが琴線に触れるようになったようです。
得てして街道の遺構というのは「点」です。
アスファルト舗装の近代的な街並みの中に、旧何々家とか、陣屋跡とかが、ポツンとあるだけ。
だからこそ、巨大セットのもつ「面」としての江戸時代の風情は、他にはない没入感があります。
そんな時代劇のセットの中、親子で「すみっコぐらし」のキャラクターを探しながら歩いたのは、不思議な体験でした。
「かくれんぼ」というイベントで、あちこちに置かれた陶器の人形を見付けていく趣向です(現在は終了しています)。
映画村では、こうした期間限定のイベントや企画が繰り返されていて、80万人/年程度と全盛期ほどの客入りはないにせよ、市民の中でもある程度存在感あるポジションを築いていると思います。
映画の灯を絶やすな、との思いの下に結集した活動屋(活動写真屋/映画屋)達が、己の人生を投げ打って汗をかいた現場の上で、すみっコぐらしのコラボうどんをすする、静かでのどかな平日の昼下がり。
う~~む、夏草や兵どもが夢のあと。
今の太秦、そして右京区は、京都郊外の住宅地として存在感を増しています。
右京区は、市中心部の地価高騰を受けて子育て世代の流入が続き、人口も増加傾向。市立太秦小学校は、児童数800名超を抱え、市内でも上位の大規模校です。
太秦は「映画の街」から、「住む街」「暮らす街」へと移り変わっていきます。