6月ですので六道参り…というのも、妙な話。
というのも、六道参りと言えば、8月の「お盆」に組み込まれた年中行事の一つだからです。とはいえ、京都で「六」のつく話、とくれば、いの一番にこの話題でしょう。
京都駅から市バスでおよそ20分。清水寺の坂の下、清水道バス停付近から、六原と呼ばれる地域を巡る小さな旅です。
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六道参りは、京都の中心部を含め、概ね東側の住人にとってなじみ深い年中行事です。
お盆の初め、8月の7日から10日にかけて、いわゆる「六道さん」、東山通から松原を入ったところの北側にある珍皇寺(ちんのうじ)をお参りして、先祖の霊(お精霊さん=おしょらいさん)を迎えに行くことを言います。
六道とは、仏教の教義でいう地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅・人道・天道の「六種の冥界」のことです。人は死んだ後この六道を輪廻転生すると説かれていますが、この六道の分岐点、即ちこの世とあの世の境目が、京都では珍皇寺のあたりにあると言われてきました。
それは、珍皇寺近辺を境に、それより山の方は鳥辺野と言われた葬送の地で、昔は都の街並みが尽きるこの地より先に遺体を葬ったからでしょう。
実際、今でも東山通より奥側には、大谷本廟の大規模な墓地があったり、その山の上には市営斎場が稼働していたり、現代においてなお、説得力を持つロケーションではあります。
六道さんのある辺り、具体的には東山通と鴨川、四条通り南側の建仁寺以南と五条通りの間の地域を、六原(ろくはら)と呼び、昔の六原小学校の学区でした(今は周辺の学校と統合し広い開晴小学校区の一部です)。
「ろくはら」と言えば…そうです。歴史の授業でおなじみ、六波羅探題。
鎌倉時代の1220年代に、京都を治める幕府の出先機関として設置されたものですが、当地に置かれていました。
今は建物などは残らず、跡地には京都市立開晴小中学校があります。
今でも「ろくはら」の名が残るのは、「六はらさん」こと六波羅密寺(ろくはらみつじ)。こちらは六波羅探題より古く、951年の建立(当初は西光寺の呼称)で、珍皇寺の近傍にあります。
ちなみに、「六波羅」と「六道」の名の由来は、同じ仏教用語でも少し違います。
六波羅(蜜)のほうは、仏教の修行で体得すべき資質(六度彼岸、つまり悟りの境地に達すること)の意味から来ています。また、六波羅密寺が建てられる前から、この界隈が六原と呼ばれていたため、寺の名に六波羅を選んだとする説もあるようです。
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では、六道参りの作法を見てみましょう。
お参りの期間は、毎年8月7日から10日の間に限られます。
まず、参道の店で高野槙(こうやまき)を購入します。
精霊は槙の葉に乗って帰ってくるとされているためです。
続いて、本堂前に陣取る僧侶に頼んで、水塔婆(みずとうば、細長い板)に、先祖の戒名や俗名を書いてもらいます。
そして、迎え鐘をつきます。
普通の鐘と違い、鐘自体は地下にあり、綱を引くと鳴ります。
この鐘で先祖を呼び出し、槙の葉の上に移ってもらいます。
水塔婆を境内の線香の煙で清めた後に、石仏の前へ納めたら(その際、水で濡らした高野槙で改めて清めます)、寄り道せずに直帰する。
…と言っても、ここに挙げたのはお寺の公式案内による順番。
実際は、鐘をつくのは最後など、各家庭ごとにまちまちなのではないでしょうか。
ここまでが六道参りです。
この後、お精霊さんには、13日まで、各家庭の井戸などの涼しい場所で休んでいただき、13日の朝から16日朝までの食事は、精進料理をお供えします。
動物性の食材が使えないので、おだしも昆布だけで取ります。
16日の朝は、アラメをたいて、その黒い湯がいた汁を門口に敷いておきます。
これを「追い出しアラメ」と言います。
そして、夜の大文字の送り火で浄土へ帰っていただくまでが、スタンダードな京都の盆の過ごし方と言われるものです。
まぁ、実際に、この通り忠実にお盆を送る市民は、今は少ないと思います。
しかし、送り火はともかく、六道参りは、その人出の多さから今でも大きな存在感のある行事だと思います。
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そんな六道参りの六道さん近辺は、市中から大勢の人を引き寄せ、えらい盛り上がり(?)ます。
まず、六波羅密事では、8月8~10日の間、万燈会が行われます。本堂の中で、108つの灯芯(ランプのようなもの)を使って大文字を灯します。
幻想的な雰囲気で、大文字の送り火とリンクする迎え火のようにも思えますが、定かではありません。
こちらでも珍皇寺と同じように、地下の迎え鐘をつくことができます。
近くの西福寺では、この時期のみ公開されるハードな地獄絵図(文字通り)と檀林皇后九想図(こっちの方が怖い)を拝むことができます。
そして、西福寺の真ん前、みなとやの名物「幽霊子育て飴」。
この飴は、近くの墓から子の泣き声がするからと掘り起こされたら、生きた幼児が発見されたそうな。そう言えば、この数日間、夜ごと飴を買いに来る婦人がいたが…この幼児発見以来さっぱり来なくなった。むむ…もしかすると、
ありゃ一緒に墓に葬られた、お母さんの幽霊だったのでは?
…という、450年前の昔話がそのまま今に伝わっている、という飴です。
なんと言うか、もう、なんなんでしょうね。
別に霊的な何かで町おこしとかしてるわけじゃないんですよ。
昔から、天然で、そういう場所なのです。
そうかと言って別に気味が悪いというわけはなく(まぁ、霊と言ってもあなたと私のご先祖様、なわけですし)、当たり前のように、霊とともにある、といった感覚です。
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ちなみに珍皇寺は臨済宗建仁寺派の寺院ですが、六道参りの時は、宗派もくそもなく大勢の人が押し寄せます。本当に独特な風習ですね。
また裏を返せば、この珍皇寺、混雑するのはこの時期だけです。
他のシーズンは実にひっそりとしており、実際、市民か、小野篁(おののたかむら)という人物のファンでもなければ、ほとんど知名度もないのではないでしょうか。
それが盆の口だけ「わっ」と、人やら、人でないものやらが一緒くたに集まって大騒ぎとは、考えれば考えるるほど、珍妙な話ですね。
なお、厳密には、同じく盆の口に北区にある千本えんま堂へ参るのも、同じく六道参りまたはお精霊さんと呼ばれ、この方面の方はこちらに参るのだそうです。
京都では以上二か所が有名な冥土の入り口、というわけです。
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先祖と共に過ごす夏。
大文字の「送り火」の前には、しっかりとお迎えの儀式があるんですよ、という事をお話ししました。
最近日中が余りに暑いので、すっかり真夏の気分で書きましたが、実はまだ二月も先ですね…。
先が思いやられる、京都の長くて暑い夏が、また今年もやってきました。