外から見える姿が、内から見えるそれと大きなギャップがあるのが京都の街ですが、「運動会文化」もまた、その一端を示しているように思います。
京都ほど、老若男女入り混じった「市民運動会」が盛んな街が、他にあるのだろうか?素直にそう思うほど、毎年のように市内各所で熱戦が繰り広げられております。
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ここで言う「区民」とは、中京・下京といった行政区ではなく、「学区(=小学校区)」です。京都の市民生活は、学区に根差しています。町内会も防災も福祉も民生も、みんな学区が基本単位。
区民運動会は、同じ学区の市民が一丸となって繰り広げる年に一度の大イベントです。前号で取り上げた「地蔵盆」が終わり、この区民運動会が終われば、今年の町内会行事も一段落、役員さん方も一息つけるというものです。
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さて、運動会自体は誰もが知っている行事であるにもかかわらず、意外にも歴史をつづった文献は多く出ていませんし、ルーツもあまり知られていません。
大まかに紐解くと、明治初期に旧日本海軍の兵学校で「遊戯会」として行われたことを起源とし、後に文科省が集団訓練の一環としての運動会実施を全国の小中学校へ指導したことから、明治30年代には日本の学校の年中行事として定着していきました。入場行進やマスゲームなど、軍事訓練的な側面もあったことは言うまでもありません。
しかしながら、当時の学校全てに校庭が完備されていたわけではありません。
必然的に、会場としてお寺や神社の境内などを間借りすることが多かったようです。すると、当然その寺社の管理をする檀家さんや氏子さんに許可を取る必要があります。即ち地域の皆さんに運動会開催のお願いをせねばなりません。
それなら一緒に参加してもらおうという機運になって…ならば、老若男女どんな人でも参加してもらえるような競技を取り入れよう…パン喰い競争や大玉転がしなんてどうだろう?…と言う具合に、日本土着の(?)競技を含んだ「ニッポンの運動会」の形へと徐々に変節していったようです。
京都の区民運動会は、各学区ごとに組織される体育振興会が主催し、かれこれ半世紀以上にわたり開催され続けています。学校行事としての運動会とは全くの別物、というところがミソです。もっと広い行政区単位での開催や、学校主催の行事の一環として市民が招かれる運動会は良くありますが、毎年百以上の小学校区がそれぞれに属す全住民を対象とする運動会を、自主的・継続的に実施する都市は全国的にも、世界的にも珍しいようです。
(というか、あったら教えてください)
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最近の学校の運動会では順位が付かないなど、過度に競争心を煽らないようにしているようです。しかし、昔ながらの区民運動会はそんなのお構いなし。
各町オリジナルのゼッケンをまとい、町毎に随時得点が張り出されるから対抗意識むき出しで、順位に比例して豪華な景品ももらえるせいか、射幸心も煽られっ放し。
(案外大人の方がムキになっていたりして)
京都の人は腹黒いとか、何考えてるかわからんとかよく言われますが、なんだかこういう素直な(笑)姿ももっと見てほしいと思います。
なお、町毎に非常に温度差があるのもまた興味深いところで、早いところでは数週間ほど前から、長縄跳びやバトンリレーの練習の姿を路地のあちこちで見かけるようになります。強烈なのは、玉入れや綱引きさえも練習してくるチームがあること。訓練用器具を町内会でわざわざ所有しているんですね…。
そうかと思えば、全くやる気もなく、ぶっつけ本番で出ていく町や(無論、足が回らなくてズッコケるおじさま多発)、高齢化で競技に人を出すことさえままならぬ町もあります。応援席の雰囲気を見ると、そんな「町勢」も垣間見え、現代は個人だけでなく、コミュニティにも格差が到来しているのだと、なんだか妙な心配をしてしまいます。
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皆さんのお待ちかねは、なんと言ってもこの抽選会と景品です。
それもそのはず、自転車や高級お肉、家電、洗剤などの日用品に飲食料品、商品券などがこれでもかと用意されているのが通例で、盛大な学区では、もう朝から校庭の一角に景品がうず高く積まれているのだとか(モノで釣られている感は禁じ得ません)。
そして、2千人規模の衆人が固唾をのんで見守る環境で、所属町と氏名がマイクを通して高らかに読み上げられんとする妙な緊張感。当たってほしいような、ほしくないような。特定の町に当たりが続こうもんならブーイングの嵐。
当たった人には理不尽すぎて、おかしくてみんなで笑ってしまいます。
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その意義は、紛れもなく町内の親睦と交流、学区民の連帯意識や所属意識の醸成、そして健康増進でしょう。
しかし、今、全国的に町内運動会は他の町内会行事と共に曲がり角に差し掛かっています。共働き世帯が増え、休日も分散し、土日出勤の人もいます。
子供たちも塾や習い事、スポーツなどで大忙し。結果的に参加者の中高年比率が高まり、寄付集めや参加者登録など役職の負担感ばかりが先行し、参加する人も少ないから徒労感が募るという悪循環に陥ります。
しかし、秋のさわやかな青空の下、普段あまり話すことのない世代も背景もバラバラな町内の人たちとお茶を飲んで話し込み、子育ての相談や地域の昔話を聞くのも楽しいものです。世代ごとの視点とか、感じ方、考え方なんかも学べますから、仕事にもきっと生かせます。
最近は、町内会やコミュニティ行事に対する批判的な言説が多いですが、その矛先はあくまで強制性とか、運営の不透明さとか、面倒とか、そういう部分であって、効用そのものに焦点を当てた意見は少ないように思います。
(具体的に提示できるものではないから、弱くなりがちです。)
もし参加するとなれば、嫌々ではなく、何か楽しめるポイントはないか、その目的とするところは何なのか、考えてみてもいいのではないでしょうか。
目先の損得ではなくて、長い目で見た安心感、自分の住む町の連帯感に価値を見いだせる我々アラサーくらいの若い世代が増えるといいなと思います。