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本能寺の変・その後

今からおよそ450年前の1582年6月2日、日本史の中でもとりわけ有名な「本能寺の変」が勃発しました。
日本史上もっとも有名な戦国武将・織田信長が遂げた非業の死というセンセーショナルな出来事は、どんなに日本史に興味が無くても、社会科が嫌いでも、記憶に残っている方が多いのではないでしょうか。

本能寺の変の後、それを実行した信長の家臣・明智光秀は、同じく家臣だった豊臣秀吉に滅ぼされてしまいます。
結局信長にとっての積年の夢「天下統一」を果たしたのは秀吉でしたが、長くは続かず、徳川家康に覇権を明け渡すことになる……。

これが本能寺の変の後のおおよそのストーリーですが、今回はもっとスケールの小さい、信長のお葬式に関するお話。
キーパーソンは、「清玉上人(せいぎょくしょうにん)」です。

■清玉上人の壮絶な生い立ち

時は戦国、信長の異母兄弟・織田信広は尾張国で初陣を迎えます。
その戦場で、とある身重の女性が倒れていました。
信広は、介抱してやれと家臣に命じますが、女性はあえなく息を引き取りました。ところが、お腹の中の子はまだ生きていたため、取り上げてやることにしました。
信広は、戦場に生まれた身寄りのないその子を、織田家の息子として面倒を見ることにしたのですが、その子が後の清玉上人なのでした。

織田家の一員として育った彼は、出家して仏道で織田家に奉仕したいと頼み、京都へ向かいました。
織田家による資金面での支えもあり、弱冠20歳で阿弥陀寺を継ぐことになります。

■織田家の躍進と共に出世

その頃、信長は足利義昭を担いで上洛を果たし、急速に権勢を拡大していきます。
清玉上人、そして阿弥陀寺も、織田一族として信長とのつながりが深かったことから、織田家の躍進と共に影響力を高めていきます。
開基を信長、開山を清玉上人として、今出川大宮に場所を移した後はかなり広大な寺領を与えられました。また、尾張から織田家の関係者が上洛する際には、宿所として重用されました。

寺宝には、東大寺大仏殿の復興に力を注いだ清玉上人に宛てた松永久秀の書状も残されており、当時の清玉上人、そして阿弥陀寺の影響力の大きさが伺えます。

(そもそもこの頃東大寺が荒廃したのは三好松永勢が暴れたせいなのに、久秀は書状において「後生名を残す殊勝な事である」なんておべっか使うんですから、本当に狸ジジイですね)

■本能寺の変

そして迎えた1582年6月2日。
寝首を掻かれ明智光秀の軍勢に包囲された信長は、僅かな数の家来が応戦するもとても敵わず、寺を包んで燃え盛る業火の中に消えたとされています。

この後、光秀は信長の首や遺体を見つけることができていません。
普通に考えれば、建物と一緒に燃えてしまったのですから無理からぬことです。
ただ、本当に信長を討ったのが自分であると示し、権力を掌握するためには、その遺体がどうしても必要だったはずで、懸命に探したものと思われます。

ここに謎があるのですが、阿弥陀寺に伝わる話ではこうです。

討ち入りの様子を聞きつけた清玉上人は、自身の僧たちを20名ほど引き連れて急ぎ本能寺に向かった。
急襲の混乱に乗じ、本能寺の僧を装って内部へ侵入すると、わずかな織田の家臣たちが明智勢と交戦しつつも信長の亡骸をどうにか守っている。
しかし、多勢に無勢、滅ぼされるのは時間の問題。
上人は織田勢に対し、自分が信長の葬儀を行うこと、他のなくなった家臣たちも必ず手厚く葬り、法要を欠かさず弔い続けることを宣言し、遺体の引き取りを申し出た。
家臣たちは上人の申し出をありがたく思い、託した。

上人はその場で信長を火葬し、遺骨は法衣に包んで箱に隠して、混乱の中をどうにか抜け出して寺へ帰り、身内のみで葬儀を行い墓を建てたという。
襲撃のほとぼりが冷めた後には、改めて明智光秀に対し、命を落とした織田勢の家臣の亡骸を引き取ることを申し出、実行したといわれている。

実際に短時間で亡骸を火葬して運び出すことなどできるものかと訝しがる声もありますが、ひとまず、これが阿弥陀寺の言い伝えです。

■秀吉との争いとその後

光秀の策略はうまくいかず、実際に天下人となったのは秀吉でした。
秀吉は元主君であった信長の葬儀を行うことを考え(そして権力の移行を世に知らしめ、確かなものとするため)、清玉証人を尋ねましたが、上人はそれを拒みました。それも、三度も。
業を煮やした秀吉は、新たに大徳寺総見院を建立し、大々的に葬儀を開いてしまいます。

ほどなくして、阿弥陀寺は広大な寺領を奪われ、現在の上京区、賀茂川に近い小さな場所に移されます。
そして、元の寺領の上には秀吉の政庁・聚楽第が築かれました。

のちに書かれた信長の一代記「信長公記」には、清玉上人は一切出てきません。
歴史とは、勝者が書き記すのが世の常ですから、これはまぁ、秀吉にとっての不都合な真実だったのかもしれませんね。

その後、阿弥陀寺は長らく檀家も少なく維持に苦労したそうですが、信長の側近・森家に代々守られ、大正時代には、宮内庁から正式に阿弥陀寺境内にある墓が、正統な信長の墓であるとのお墨付きを得ました。

なお、この阿弥陀寺のお話は史料の裏付けが乏しく「異説」とされています。
かといって、数々の書状や寺の記録を踏まえると全否定できるものでもなく、「信長の遺体の行方」は、永遠のミステリーとなっています。

阿弥陀寺は、年に一度、信長の命日だけ本堂が公開され、法要が営まれます。
今年は前日(6月1日)も一般公開があったので訪問し、今号はその時に伺った話を元に執筆しました。

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歴史とは、日の当たる出来事ばかりではなく、細かな、しかし当人たちにとってみれば重要な事件の積み重ねです。
そのディティールを丹念に追っていくと、時代を超えた人々の矜持や苦悩を垣間見ることができます。
そして時に、それは今を生きる我々にヒントを授けてくれるようにも思えます。

長く続いてきた寺や神社には、亡くなった人のドラマが染みついています。
目で見て感じるだけではない、京都の街が放つ魅力の真骨頂はそこにあるのだと、改めて感じる参拝でした。