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源氏物語と京都 前編

年明けから始まる新しいNHK大河ドラマは「光る君へ」。
紫式部が主人公だそうです。
ということは、主な舞台は平安時代の京都になりますね。

■源氏物語

紫式部の代表作「源氏物語」は、今からおよそ千年前、11世紀の京都を舞台に描かれた平安時代の小説です。
年代によって中学か、高校か、習う時期は違いますが、誰もが知る古典、古文の一つです。

全編あわせれば100万文字、原稿用紙2,400枚にも及び、登場人物はおよそ500名、時間軸は70年大長編とまさに大河ドラマのスケールです。
そして、来年は満を持してNHK大河ドラマ「光る君へ」として抜擢……されるのかと思いきや、どうやら源氏物語が原作、というわけではないようです。

実際これを映像化しようものなら、平安時代の貴族の自由奔放な行動、夜這いや寝取られの続発、生霊による惨殺などはちょっと日曜夜のお茶の間にはふさわしくないでしょうし、現代の地上波テレビでは放送できないシーンばかりになってしまいそうです。

もちろんこれは余計な心配で、実際の主人公は紫式部なんですね。
それで、光源氏も出てこない、と。
そりゃぁそうか、NHKなんで。

※とは言え、昔から源氏物語は映画・ドラマ、擬作に補作、小説、舞台・能に歌舞伎に果てはマンガまで、何度も何度も作られ続けています。

■源氏物語のあらすじ

物語は全54帖に分けられ、大きく三部に分類されます。
冒頭から33帖までが一部で、類まれな美貌に恵まれた光源氏が宮中で影響力を高め栄華を極めていく様子を描きます。
次いで41帖までを二部とし、絶大な権力の座から転落していく光源氏を通じ、因果応報や盛者必衰をあらわしていると言われています。
42帖からを三部とし、特に最後の10帖は別名「宇治十帖」とも言われ、主要な舞台を宇治に移し、光源氏亡きあと、息子たちの時代の物語となっています。

物語の中核となる登場人物「光源氏」は超イケメン貴族として有名で、架空の人物にもかかわらず、これほどまで名を知られている者も珍しいのではないかと思います。
そして架空とは言え、時の権力者・藤原道長をイメージして書かれていると言われています。

源氏物語は書かれた当時から絶大な人気を誇ったそうで、印刷技術がない当時は書き写しで「写本」を作り、回し読みしたそうです。
今では考えられませんが、読み手の側もすごい熱量ですね。
そこまで人々を魅了したのは、人物の心理や人間関係の機微、緻密な季節や風俗の描写などがそれまでにない画期的なものだったからで、後の文学作品にも多大な影響を与えました。

■紫式部ゆかりの地を訪ねて

源氏物語にちなんだ京都の名所や体験を挙げるとするならば、やはり紫式部の足跡を辿ってみるのが一番です。

さっそく訪ねたのはお墓。堀川北大路下ル西側に建っています。
紫式部はこの辺りで生まれ育ったとされていますが、この時代は女性の生没年に関する正確な記録は無く、諸説入り乱れています。
そもそも、紫式部という名も通称で本名ではありません(式部とは女官のこと)。
しかし、本名が何かというのも、はっきりとは伝わっていないのです。

お墓のあるあたりから北西一帯の住所は、いまでも紫野(むらさきの)です。
雅なこの地名は、紫氏が住んでいたから…という意味ではなく、紫の染色材料「紫草」が生えていたからとか、元は洛外であったため「村の先」から来ているなどの説があります。

■たびたび描かれる雲林院

紫野には、初恋の人・藤壺に拒まれ傷心の光源氏が引き籠った「雲林院」が
残っています。
さすがに建物は当時のものではありませんし、現在はこじんまりとした大徳寺
の境外塔頭の一つという位置づけです。
しかし、当時は広大な大寺院だったようで、近年もマンション建設前の発掘調
査で建物の遺構が出るなどして話題になりました。こうした調査によると、
建物跡だけでも少なくとも200メートル四方はあったそうです。
古今和歌集にも出てくるなど、平安時代の雲林院には大きな存在感があったよ
うです。

■平安宮は西陣に眠る

応仁の乱に遭った京都には、奈良と違って室町時代より前の建物はほとんどありません。このため、京都市内の平安京跡には、看板だけになっているところがほとんどです。

そもそも平安京自体が現代の烏丸・河原町の都市軸に比べると大きく西にずれており、当時の都のメインストリート「朱雀大路」は現在の千本通りに当たると言われます。

千本通りは今の京都の街で考えると西の方ですし、住所のヒエラルキーとして見ても「田の字の外」なわけです。

とは言え、紫野のまっすぐ南方、西陣の街並みを歩くと、平安京の内裏跡などを示す看板があちこちに立っていますし、実際に身体を動かして内裏の距離で掴むことで、不思議とイメージにも輪郭が浮かんでくる気がします。

ちなみに、東京奠都を機に建設された平安神宮の社殿は、当時の平安京の正庁、朝堂院を約8分の5の規模で再現したものです。
元あった位置とは大きく違うわけですが、西陣は明治の頃には既に小さな住宅が密集する職人街だったため、作るに作れなかったんですね。

次回は京都を飛び出して、物語の着想を得て執筆活動にあたったと言われる「石山寺」、そして終盤の舞台となった宇治を訪ねます。