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巨椋池のこと

京都市内を南北に走る唯一の高速道路・阪神高速8号京都線から第二京阪道路へ入り、宇治川を渡ると現れるインターの名は「巨椋池(おぐらいけ)」です。
しかし、周囲には畑と工場が点在するだけで、池らしきものは見えません。
そう、ここは昭和初期の干拓により姿を消した巨椋池の干拓地なのです。

■在りし日の巨椋池

巨椋(おほくら)の
入り江とよむなり
射目人(いめびと)の
伏見が田居(たい)に
雁(かり)渡るらし

「巨椋の入江がさわがしい。狩人のいる伏見の田に雁が渡っているらしい」……と万葉集に詠まれたこの池は、周囲16km、800ヘクタールにも及ぶ規模で、古来、宇治川、桂川、木津川の三川が合流する淀地区の東側に大きく広がる天然の遊水池であり、鯉などの淡水魚や貝などの好漁場でもありました。

はじめて巨椋池に人の手が大きく加えられたのは秀吉の時代。伏見城を築城するにあたり、宇治橋から直接巨椋池に流れ込んでいた宇治川の流路を、堤によって大きく北へ迂回させ、城下へと水の流れを導いたのです。
この時に築かれた堤は「太閤堤」とも呼ばれています。

川の流れを外濠として守りを固めつつ、港を整備し、伏見城下を京と大坂を結ぶ淀川の舟運基地として栄えさせる。
重機の無い時代に、なんとスケールの大きなまちづくりでしょう。

とは言え、それからもしばらく間、巨椋池は自然の恵みをもたらし続けます。単に漁場であるだけでなく、近代は水辺に親しむ観光地としても脚光を浴びたようです。

中でも睡蓮が名高く、見渡す限り緑で覆われた水面から突き出す紅白のハスの花が、何キロも先まで延々と続いていくという、それはそれは壮麗な情景があり、見物船で賑わったそうです。

■干拓

さて、次に池に大きく人の手が入ったのは明治43年のことです。
三方から水が集まり滞留する巨椋池は、たびたび洪水を繰り返し周囲の住民の生活を脅かしていました。
このため、宇治川の大規模な改修によって巨椋池に流れ込む水流をほぼ寸断してしまったのです。

池の水位は日に日に低下し、一方で近隣からの生活排水の流入は続き、急速に水質の悪化が進みました。
魚介や水草など湖の恵みは失われ、代わりに大量の蚊が湧き、マラリアが流行しました。
今では熱帯地方で見られるマラリア、日本にも土着していたのですね。

こうして、皮肉にも周囲に暮らす住民の生活をただ脅かし続けるだけの厄介な存在となってしまった巨椋池。

昭和に入ると、折からの食糧増産の要請もあり、干拓の話が持ち上がります。
そして昭和8年、国直轄の干拓事業第1号として着手されました。

水路を塞ぎ、ポンプで水を抜き、島を崩して平らにならし、8年の歳月を経て、巨椋池は地図から姿を消したのです。

■巨椋池の遺構を訪ねる

京都市と久御山町に1箇所ずつ、実際に干拓で利用されたポンプ施設「排水機場」が残されています。
普段は建物の中は見学できませんが、屋外に実際に使用されたポンプが展示されています。

2つの排水機場に挟まれているのが「東一口(ひがしいもあらい)」地区です。

まず京都府下でも一二を争うとんでもない難読地名ですが、ここは明治43年の次点で唯一巨椋池と木津川を繋ぐ水路として残された場所であり、後鳥羽上皇の時代より特権的に与えられた漁業権により、巨椋池の漁民が暮らす中核的な地区となった経緯があります。
集落内には蔵屋敷が点在し、往年の繁栄ぶりが伺えます。

中でも国登録有形文化財の旧山田家住宅は江戸時代の大庄屋としての風格を今に伝える建物で、定例的に一般開放されており、日程を調べて行けば中も見ることができます。

東一口地区を歩けば水路に挟まれた狭いエリアに大きな屋敷が立ち並ぶ、異様な景観が見て取れますが、在りし日の巨椋池の恵みの大きさを感じさせる遺構と言ってよいでしょう。

ちなみに、巨椋池の東側を2本の鉄道が走っています。
一つはJR奈良線、もう一つが近鉄京都線です。

明治29年、先に奈良鉄道として開業したのが現在のJR線です。
伏見城の麓を過ぎ、さぁ一路奈良へ向けて南下するぞ!というところで、巨椋池を避けるために宇治川を渡らず、東に大きく迂回していきます。

一方の近鉄線は、伏見を出るとすぐに宇治川を渡り、そのまま大久保、田辺方面へ向けて真っ直ぐに引かれています。
近鉄の線路が前身の奈良電気鉄道として開業したのは大正14年。
当時まだ干拓は完了していませんでしたが、奈良鉄道、後の国鉄に対抗するため、奈良まで最短距離で結ぶことを意識した線路は、なんと太閤堤の上を走ることで巨椋池を突っ切ることに成功しました。

近鉄向島駅のあたりはニュータウンとなっていますが、古来、向島とは巨椋池に浮かぶ本当の島の名前だったというわけです。

さて、地図から消えた巨椋池、と申しました。
遺構と言っても、上記の通りすぐにそれと分かるようなものはあまり残されてはいませんが、一つ良い方法が見つかりました。

Googleマップを航空写真モードにして、久御山ジャンクションの辺りからズームアウトしていくと…
巨椋池

四方から家並みが押し寄せる中で、はっきりと綺麗な水田だけのエリアが浮かび上がります。そして、その大きさに驚くことと思います。
池と言うよりは湖のスケール感。

巨椋池は、確かにここに存在したのです。