当社が所在する京都市山科区は、京都市中心部から東山を挟んでさらに東にあります。
山科は昭和30年代まで竹林や田畑に覆われた田園地帯でしたが、高度経済成長の頃からベッドタウンとして急速に開発が進み、人口は昭和30年からの20年で3倍超となりました。
今では、農村由来の脈絡なく曲がりくねった細い街路沿いに住宅がびっしりと立ち並ぶなど、洛中の碁盤の目とは異なる独特の街並みを形成しています。
そんな山科を沸き立たせる最大規模の年中行事が「義士まつり」です。
言わずもがな、「忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」に出てくる赤穂義士です。
簡単なあらすじは、元禄年間に江戸城にて赤穂藩藩主の浅野長矩(あさのながのり)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかったが故に切腹に処せられた事件に端を発し、後に家臣の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)以下47名が吉良邸に押し入り、見事仇討ちを果たした、というもの。
これだけ聞くと、時代劇ファンでもない方からすれば、世にありふれた仇討ち物語の中で、なぜ忠臣蔵だけが特別扱いをされるのか、と思うのですよね。
これは、赤穂義士たちの行いが、それまでの「親兄弟の仇討ち」ではなく、前例のない「主君のための仇討ち」であったからです。
つまり、血の繋がっていない主のために、普通そこまでしないよね…という一線を越えて行った仇討ちと言う意味において、後の武士道(あるいは極道へも?)与えた影響が大きかったのです。
なお、赤穂藩の側に立てばこれは忠臣が主君の無念を晴らした「義士」となりますが、吉良側や幕府からすると、主君を失った者たちが起こした物騒な暗殺劇、テロリズムであるわけで、より中立的に「浪人」とあるい「浪士」と呼ばれます。
(江戸時代は、仇討ちそのものは認められていましたが、あくまで近親者が行うものとされていました)
最初の長矩と上野介との刀傷沙汰の後、赤穂藩主である浅野家が撮り潰しの危機に遭います。そして、家来である大石内蔵助もまた立場を危うくします。
赤穂藩は、現在の兵庫県播磨地方の西端にあり、山科と直接の縁はありませんが、赤穂義士達のリーダー格であった内蔵助は西に京を控え、江戸や西国へも通じる交通至便なここ山科の地に潜み、浅野家再興を願い奔走しその希望が潰えるとついに討ち入りを決意するに至ったのです。
そういうわけで、山科区一帯では、昭和49年以来、毎年吉良邸へ討ち入りを果たした12月14日に「義士まつり」を実施してきました。
義士にちなんだ祭事自体は、実は珍しいものではありません。
というのも、地元赤穂では100年前の明治時代から、長矩と赤穂浪士の墓がある東京泉岳寺では1950年代から赤穂義士祭が営まれてきました。
山科の義士まつりは、最初は地元商店主達が町おこしのために始めたこじんまりとしたイベントでしたが、だんだんとその規模が大きくなってきたものです。
一方で、実施日はあえて土日とはせず、討ち入りがあった12月14日とストイックに固定しています。
京都のお祭りは、祇園祭にしても時代祭にしても、日付固定が多いです。
京都の住民は代々続く職人家業など零細企業や自営業者が多く、それが故に成り立ってきた面もあると思います。
まつりの目玉は義士に扮した行列です。
かつらや衣装、メイクさんまで東映太秦映画村から借りているためかなり本格的ですが、「中の人」は基本的に住民(山科区民)が務めます。
例年配役表まで出ていますが、その下の回覧印欄が妙にリアルで良いですね。
http://www.gishimatsuri.com/pamphlet/img/panf46.pdf
義士隊列は毘沙門堂から大石神社まで、山科の北の果てからメインストリートを端から端まで縦断し、沿道には家族や親戚、ご近所さんが詰めかけて声援を送ります。
山科駅辺りからは子ども義士隊列も加わって一層にぎやかになりますが、いや、京都の方はほんまにこういうのが好きですねぇ。
昔ながらの着倒れ文化というか、コスプレ趣味と言うか。
椥辻近くの東部文化会館では、東映の俳優(そこまで借りる?)によって忠臣蔵の生芝居が演じられ、市民による大石音頭やら踊りやらが披露されます。
昼食時を挟みしばらく滞在しますが、隊列はそこで終わらず、さらに進みます。岩屋寺では大石内蔵助役が無事本懐を遂げた事を報告し、大石神社(もちろん当神社の祭神も内蔵助)で最後の勝どきを上げます。「えい、えい、おーーー!」
山科の義士まつりは、赤穂や東京のそれとは違い、急激な発展を遂げた山科区の区民同士の連帯の強化、山科という地への愛着の醸成やアイデンティティの確立を趣旨として始められました。
運営は地元の住民ボランティアで、資金は区民の寄付や地場企業の協賛金によって成り立っている手作りのイベントです。
第46回の今年は3年ぶりの開催となりますが、それでも半世紀以上続いてきています。
根強い山科の義士まつり、もちろん、それは山科ゆかりの赤穂義士をしのぶ思いを根底に据えつつも、住民たちに山科の町や歴史を知って欲しい、愛着を持ってほしいという先人たちの願いが込められています。
一方で、広く他地域の方にも開かれたお祭りでもありますので、もし12月14日、お近くにお越しであれば、ぜひ一度、山科区民渾身の義士隊列(supported by東映太秦映画村)をご覧になってみてはいかがでしょうか。