夏休みが迫る中、なかなか遠くまで出かけよう!という機運ではありません。
かと言って、ずっと家の中にいてはストレスが溜まるので、散歩をしています。
今号では、最近歩いた「御土居(おどい)巡り」について紹介いたします。
皆さんご存知「豊臣秀吉」が築いた、京都の町をぐるっと囲む城郭です。
明智光秀を討ち、天下統一を果たした後の、天正19年(1591年)に築造されました。
御土居の整備は、聚楽第(じゅらくてい)の造営、御所の修復、街区の再編に続く秀吉の「京都改造策シリーズ」の一環で、京都の町を延べ22.5kmもの土塁で囲み、外敵の侵入、河川氾濫への備えとしたものです。
具体的な範囲など – 京都市発行の御土居散策マップ
史実では、重機もない時代にこれだけの規模の土木工事を、ものの数カ月で完成させたらしく、当時の秀吉の強大な権勢がうかがえます。
さて、その御土居、構造面では、外側に堀を巡らせ、内側にその掘った土を盛ることで土塁を作り上げています。大きさは、高さ概ね3.5mに幅10~30mと、平屋の建物が延々続くようなスケール感です。
後に、この御土居の内側を「洛中(らくちゅう)」、外側を「洛外(らくがい)」と呼ぶようになりました。
洛中洛外と言えば、ネットで揶揄される京都人同士のマウント合戦の一つの基準線です。
会話の中でそれとなく住所・出身を訪ね、それが御土居の内か外かで、相対的に各々の出自の優劣を確認するわけです。
この基準としては旧番組小学校区、通り名の住所(住所が○○通△△上がる下がるなのか否か)、御土居の内外、市バスの200番台の循環系統が走る中か、市バス均一区間内か否か、なんとか京区か否か…と際限なく郊外へ広がっていく不毛な争いとなりますが(苦笑)、そんな御土居も都市化とともに徐々に壊され、いま目に見えるのは、僅かに残る遺構のみとなっています。
500年も前の話なのに、未だ街のそこここに影響が残されていることに、ロマンを感じませんか?
例えば、御土居は都をぐるっと囲む土の壁ですから、出入りできる場所は限られていました。
その出入口として今も伝わる「京の七口」を決めたのが、この御土居であったと言われます。
例えば、鞍馬口。
地下鉄烏丸線に乗り、鞍馬寺を目指して鞍馬口駅で降りると、バスも何もないので身動きが取れなくなる「京の初見殺し駅」の筆頭です(一応、駅の改札に「鞍馬に行きたいならこの駅で降りたらあかん」と書いてます)。
この駅の直上にある東西方向の道「鞍馬口通」の由来は、鴨川に近い場所に設けられた「鞍馬口」であり、これが御土居に設けられた洛中洛外を分ける出入口の一つだったというわけです。
そして、丹波口。
JR山陰線の駅で、下を走る国道9剛が山陰道であるから、はるか丹波国への入口の意味で丹波口、と思っていましたが実はそうではなく、近くに御土居の「丹波口」があったことが由来です。
いや、最初の意味でも間違っていませんけどね。丹波へ向かう口だから丹波口なわけで。
ただ、どこかへ向かう分岐点のことは、京都では通常○○道(みち)とか、○○別れ(わかれ)と言いますので、○○口というのは、御土居由来の地名です。
さて、御土居のことは、実は2018年にNHKの「ブラタモリ」で取り上げられました。
当時の放送でも、御土居の跡をめぐり、その坂道や微妙な傾斜を見つけては、その痕跡だ!と大喜びしていました。
興味がなければ、どうでも良いことなのでしょうけれど、しかし、何気ない地形や地名に、今は亡き何世代も前の人々の営みが隠されていることを知る、そうした連綿と続く時の流れの中に自分がいると知る、その事自体が、おもろいことやと思うのです。
さて、先に少し述べましたが、実は御土居、実物はあまり残ってないです。
状況としては、ごく限られた場所に、転々と土塁があるイメージです。
ただ、そのうち9箇所は、国指定の「史跡」として残されています。
代表的な場所は、市内北西部の鷹峯(たかがみね)です。
ここは、ブラタモリの放送でも取り上げられ、土塁が一番よく残っているところです。
鷹峯地区の標高は100mを超え、実は京都タワーの展望台よりも高いところにあります。
御土居の北西端から西側は紙屋(かみや)川が流れており、ここはかなり谷が深くなっています。
御土居は、この紙屋川を天然の堀と見立て、南へと続いています。
左大文字のふもとをかすめ、静かな住宅街の中に、点々と残る土塁跡を見つけることができます。
このあたり、京都の街並みの平らなイメージとは一線を画すような急傾斜地となっており、斜面に貼りつくように家々がひしめいています。
紙屋川は、北野天満宮の近くで「天神川」と名を変え、地下鉄の終点「太秦天神川」付近へと流れ、桂川へ注ぎます。
御土居はというと、北野中学校の辺りで大きく西に膨らむ凸部を作り、天神川とは別れます。
何でこのような複雑な形になったのかは、未だによく分かっていないそうです。
東側の御土居は、鴨川の堤防の役割を果たしたことから、現在の加茂街道から河原町通りにほぼ沿って南下していますが、特に河原町通区間は、開発の結果、完全に跡形のない状態になっています。
ただ、ごく一部、盧山寺奥の墓地に残されている土塁を見ることができます。
府立医大病院の北行きのバス停を降りてすぐ左手、医大付属図書館の敷地の中に、復元されている土塁があります。
敷地内の駐車場を突っ切って寺町通へ進むと、盧山寺があります。
このお寺は、紫式部が長年過ごした邸宅跡に建っており、源氏物語もこの場所で執筆されたとか(あくまで土地だけで、建物は直接関係ありませんけどね)。
今の時期、庭には桔梗が咲き誇り、なんでも光秀が念持仏を授けた縁があるとかで、明智家の家紋も桔梗であることもあり、こじんまりした境内ながら、エピソードてんこ盛りです。
御土居跡は、拝観料も必要ない墓地の一角で、灌木と藪にまみれ、忘れられたようにそこにあります。
場所を変えて御土居の南西端、東寺西門の近くにズバリ「御土居」というバス停があります。
もちろん?周囲に痕跡は何もなく、ガレージと住宅地が広がるのみの静かな場所です。
位置としては、ちょうど御土居跡との交点にあたりますが、ただそれだけ。
名前だけが残された状態です。
都市化が進む中、御土居は邪魔だったようで、そりゃそうですよ、御土居の中か外かで、マウント取るか取られるかの紙一重ですからね(冗談です)。
宅地化のため、土をならして堀を埋め、積極的に「なかったかのように」されていったのです。
さすがに、このままでは都市発展の史料的側面を持つ御土居跡が、完全に失われてしまうということで、昭和5年、当時良好に残されていた8地点(後に1地点追加)を国指定史跡としましたが、それでもデベロッパーに壊されたという逸話が残っています。
(現代なら、そんなことはとてもできないでしょうが……)
なお、御土居バス停は一つですが、京都市内には「○×土居町」がたくさんあります。
この夏、近所・近隣を巡るマイクロツーリズムが注目されています。
普段何気なく見過ごしていた、地域の歴史や地形、土地の人物のエピソードに目を向け、色んな発見を楽しんでみませんか。
ソーシャルディスタンスを保ちつつ、運動量も確保しつつ、コロナに負けない素敵な夏休みを!
参考:京都市/史跡 御土居