ここのところ、世の中は新型コロナ感染症一色で、レジャーが失われた日曜夜の大河ドラマ「麒麟が来る」鑑賞は、少なくなった楽しみの一つです。
さて、前回は明智光秀とドラマ後半の舞台となるであろう亀岡の縁、大河ドラマ誘致に向けた取り組み、亀岡と言えば霧、などといった話題をお届けしました。
今回はその続きです。
JR山陰本線(地元では嵯峨野線と呼びます)亀岡駅、メインの南口を出ると、正面に緑で覆われた小高い丘が見えます。伏せた亀の甲羅のような、なだらかな丘、ここが、光秀が築いた亀岡城…ではなく、「亀山城」です。
ここは光秀が最初に築城し居城とした後、本能寺の変後も江戸時代に至るまで、山陰の要として重視され続け、丹波国亀山藩の藩庁が置かれた地です。
明治維新後は、廃城令を経て荒れ果てた城跡を、大正8年に宗教団体の「大本」が買い取り、現在に至っています。
現地は信者によって長年にわたり整備され、今は大本教の聖地とされていますが、戦前には政府弾圧の対象となり、第二次大本事件の惨劇の舞台ともなっています。
事前に少し調べて行くと良いと思います。
初代城主・光秀の頃から近代まで、歴史に翻弄され続けた場所なのです。
城内はあくまで宗教団体の管轄地のため、全国にあまたある「○○城跡」と異なり、復元天守も御殿屋敷もありませんが、敷地の中に入ることができます。
(少し前までは名前さえ書けば無料だったようですが、今は大河ドラマの関係で入場者数が増え、その対応のため期間限定で入場料300円が請求されています。その代わり、見学者は以前より奥まで入れてもらえるようです。)
城内には、全てではありませんが当時の石垣が残ります。
また、毎年の光秀まつりの際には、武者行列がこちらに立ち寄り慰霊祭を行うなど、今もお城として開かれている面もあります。
さて、気になるのは市名とは異なる「亀山」の名です。
明治2年までは亀岡も「亀山」と名乗っていましたが、三重県の亀山との混同を避けるため、改称されました。
戊辰戦争の際、三重の亀山が新政府軍、京都の亀山が幕府軍についたことが尾を引いて、京都側が名を取られたとの説もありますが、定かではありません。
これも歴史に翻弄された城のエピソードです。
さて、大河ドラマの聖地巡りに対応した亀岡市内の「ゆかりの地」は、首塚のある「谷性寺」、本能寺の変の直前に愛宕山へ参った際の通り道「明智越え」など、素朴な史跡が点在しているくらいで、いわゆる「観光地化」はほとんどされていません。
実際に観光客が亀岡に来られたとしても、亀山城跡に加え、大河ドラマ館や、文化資料館、町家が並ぶ城下町の散策などが王道ルートで、それだけだと、紋切り型の大河ドラマ観光に過ぎません。
しかし、これに亀岡の誇る二大集客スポット「保津川下り」と「嵯峨野トロッコ」を加えると、良いアクセントになりそうな気がします。
実際、これまでの亀岡への入込み観光客の大多数は、これらに乗車船するために市域を「通過する」のが通例でした。
保津川を往く観光客に、大河ドラマをきっかけに亀岡のことも見てほしい、短い時間でも滞在してほしい(そして、あわよくば消費してほしい)というのが、亀岡市観光協会の狙いでしょう。
京都市内から最も近く、歴史ある湯治場・湯の花温泉も亀岡市ですから、宿泊にも対応できます。
人口も増えているので、こだわったお店やカフェも多く、京都市内のような激しい混雑もなく、実はポテンシャルの高い亀岡。
大河ドラマの追い風を受けて、めざせ、脱・通過点!
そんな亀岡が、今年に入ってにわかに注目を浴びることとなりました。
日本初「レジ袋禁止条例」の件です。
これは亀岡市が長年取り組んでいる景観保全と環境保護のための施策の一環ですが、なかなか思い切っているので全国ニュースで取り上げられました。
条文には「事業者は、事業所等においてプラスチック製レジ袋を有償又は無償で提供してはならない。」と書かれております。
言うて、亀岡、普通のトカイナカですよ。
コンビニもスーパーも、国道沿いには全国チェーンの店も林立しています。
えらい攻めはりますなぁ…と思ったら、案の定、揉めたようです。
施行が遅らされ、来年の1月からになりはしましたが、しかし、実現するようです。
なんでプラごみの中の、ごく一部に過ぎないレジ袋だけを狙い撃ちやねんとか、他市町と足並みそろわんかったら意味ないやんとか、客と揉めるのが目に見えてるとか、代替の紙袋の調達コストが高すぎるとか、非難轟々でしたが、市長、あきらめなかったですね。
これは、2030年に「使い捨てプラごみゼロを目指す」という壮大な計画のための一歩に過ぎないという事で、今後も新たな策がひねり出されるのでしょうか。
たしかに、世界に誇る保津峡や、さらにその下流にある嵐山の景観を守れるかどうかは、亀岡次第なのは間違いありません。
内政にも長けていたと言われる光秀。
彼の手によって進められた亀岡の街づくりが、それを受け継ぐ今を生きる人々の手でどのように進んでいくのか、注目したいと思います。