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春と言えば…ご入学。京都の小学校

春です。花粉の季節です。
春と言えば…花。と行きたいところ、「鼻」になっている方も多いのではないでしょうか。
京都は山に囲まれ、北山には高級材で有名な杉の美林がこれでもかこれでもかと植わっておりますので、鼻炎持ちにはそれはそれは堪えます。
 
また春といえば出会いの季節。もうじき入学式ですね。
京都には大学が多く、立地数は東京に次いで全国2位の37校。ところが、意外に知られていないのが小学校の特殊性です。京都の小学校、少し覗いてみませんか。
 
 
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■学区

同じ京都人の中にも、いや中だからこそ、強く表れるのが京都人の学区アイデンティティ。
それが最も表される質問がこちら、「学区はどちら?」。
単純に出身小学校区を聞いているだけですが、京都の学区にはそれぞれ特色があり、その住人達の気質があります。その答えによって、それぞれの学区の個性に裏打ちされた「育ち」を推し量り、その人の性質を探ってしまう(値踏みしてしまう?)のです。
 
例えば、学校の統廃合の進んだ地域でも、回覧板の表紙や町内会名には旧学区名が根強く用いられています。

「区民運動会」や「区民防災訓練」など町内会イベントの「区民」は、いずれも学区民」を指します。その参加率を近隣学区と競ったり、ちょっと様子を見に行っ、盛り上がりを確認したりなんかして(そして一喜一憂したりして)います。
 
 

■番組小学校と竈金(かまどきん)

何ゆえにそこまで学区が幅を利かせるかと言えば、京都市教諭になると最初の研修で必ず叩きこまれる「竈金」のエピソードに触れないわけにはまいりません。
 
実は、京都の公立小学校は当初「市立」ではありませんでした。住民の自治組織(今でいうところの自治会・町内会に近いもの)の「番組」を単位としてスタートを切ったのです。当然、日本で最初の学区制、今の姿に近い「学校」でした。それも全64校が一斉に、というスケールです。
その時、1869(明治2)年。国家による学校制度(学制)の創設から3年も早い出来事でした。そして、その体制は1942(昭和17)年まで続くことになります。
 
その設立や運営の資金は、広く町衆が負担しました。子どものいる家もいない家も、竈(かまど)のある家は皆、竈の数に応じて、身銭を出し合ったのです。
子どもは地域の財産であるという、決してうわべだけでない覚悟を感じます。
 
学校の建物自体も、当時としては(いや、今見ても)それはそれは普請のいい、モダンなものでした。全国どこへ行っても見かける無機質で没個性な校舎とは一線を画す、一点モノの凝った建物ばかりなのです。
お世辞にも良いとは言えない京都の住宅事情の中で、これほどの設備を子供たちに与えた、当時の大人たちの想いが伝わります。
 
また、学校は地域の持ち物という意識も強く、講堂をはじめその施設は地域の寄合会場や運動会会場、はたまたご婦人方のカルチャーセンターのような使われ方をしてきました。「公民館」がほとんどない京都ですが、その役割を地域の小学校が担っていたのです。
 
 

■統廃合の危機

そんな番組小学校も、冒頭で触れたように少子化の波に洗われ、急速に統廃合が進んでいます。
自慢の学び舎も、老朽化が進み耐震化、建て替えを機にいくつも閉鎖されています。残った土地建物の活用法としては、デイサービスセンターなど、高齢者施設への鞍替えが多くなっています。
 
一方、いくつかの学校は、その校舎を活かしつつも全く新しい役割を担う施設へと生まれ変わっています。
ここまで触れてきたような京都の学校の歴史が学べる全国唯一「元開智小学校・学校歴史博物館」。地域の芸術家の卵に発表や研鑽の場所を提供する「元明倫小学校・京都芸術センター」。そして、全国的に珍しい公設の「元龍池小学校・京都国際漫画ミュージアム」。
 
それぞれ、当時の校舎がそのまま残され、利用されています。
どこか懐かしい木の床、凝った天井の造形など、今も当たり前のように佇む築100年を超える校舎に、内から外から触れることができます。
 
 

■当たり前のようにある学校だからこそ

水も電気もないような辺鄙な山村で、日本人が学校を作る。子供たちは目を輝かせてその学校へ群がる。そんな映像をテレビで見たことのある方が多いのではないでしょうか。
 
まさに100年前の京都で、日本で、同じような気概をもって大人たちが学校へ、子供たちへ未来を託しました。
私たちはそれを受け継いできた子たちであり、またそれを受け継いでいく、大人たちです。
 
 
増税の春。年々きゅうきゅうと息苦しくなるような春。
アベノミクスとか賃上げとか、どこか見せかけのような、中身のないような気がする春。
(ビジネスモデルは変わりましたか。産業構造は変わりましたか。個々人の能力は変わりましたか。変わったのは為替だけではありませんか。)
ブラック企業に人材の使い捨て。子供の貧困、機会不均等。人を育てる余裕のない雰囲気が充満する日本です。それでいて、次世代育成とか、英語必修とか、教育改革とか、偉い人がのたまう仰々しい他動詞ばかりが妙に「鼻」につきませんか。
 
京都の町衆の、自分たちの町は自分たちでつくる。自分たちの子供は、自分たちで育てる。職住一体の商工業を営みながら、質素倹約に努める暮らしの中で、人が「育つ場」としてのまちを保ってきた。そんな昔の都人のプライドに思いを馳せつつ、引き締まった気持ちで新しい季節を迎えたいものです。
 
 

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