遡ること2月のとある休日、私は丹波橋へ向かうため、五条駅で京阪電車を待っていました。
ホームの椅子に座ると、ほどなくして「トラブル発生のため電車の到着が遅れます」とのアナウンスが入りました。
最初はすぐ復旧するだろうとと思っていたものの、時間の経過とともに上下線とも運休、運転再開の目途立たず、相当時間がかかる等、状況は悪化の一途をたどりました。
乗客はいらだちや戸惑いの様子を隠さず、一人、また一人とホームを後にします。仕方がないので、私も地下鉄烏丸線まで歩いてへ乗り換えようと思い、立ち上がりました。
その時、とある集団が目につきました。
彼らは英語のマップを手に、この状況を理解していないかのごとく、雑談に興じています。事故に関する駅員の放送は全て日本語。日本人のような風貌だが、日本語を解していない様子の彼ら。
「きっと台湾人かシンガポール人だろう」
そう思うと、一昨年の中国旅行で現地人から与えられた幾多の親切がふと思い返され、お返しをするのは今だと瞬間的に感じました。
「Excuse me, Can you speak Japanese?」
「No we can」
「O.K. Now, this line have an accident…」
彼らは一瞬驚き、すぐにありがとうと応じる。
こちらからは拙い英語ではあるものの、状況は伝わったようです。
「We just want to go to Nishijin-ori-kaikan. how do we going…」
彼らの路線図から地下鉄五条駅まで行けば直行のバスがあることが分かり、ちょうど良かったので一緒に歩いて案内することにしました。
道すがら、少ないボキャブラリーの中、情報交換をしました。
香港人とイングランド人。彼らは香港デザイン研究所という教育機関の教員で、専攻はメディアデザイン、コミュニケーションデザイン、プロダクト(製品)デザイン、服飾デザインと様々。
話の中で、学校のイベントで6月に再び京都ツアーがあると話していました。その時再会できたら嬉しいね、と言い、バス停まで送り届け、別れました。
海外から旅行に来て、忙しい合間の僅かな時間を観光に充てているのに、思わぬアクシデントで満足に見たいものがみられなかったら、誰しも残念に思うはずです。
一方、現地の人間のちょっとした機転でスムーズにいくこともまたよくあって、そういう思い出はその国のイメージを良くすると共に、現地人とのちょっとした触れ合いが、旅のアクセントにもなります。
大したことはしていないのだけれど、少しはお返しができたのだろうか。親切の輪を次につなぐことができたかと、自己満足に浸ったひと時でした。
さて、先週。久々に彼らと再会しました。
四条烏丸近くの町屋の居酒屋で飲み会です。
前回の道案内の件と、その後生徒と街歩きをするのに面白いスポットはない?と聞かれて、友人とお勧めの場所を教えてあげた、そのお礼をさせてくれという趣旨でした。
私の英語力はほんとに中学レベルの馬鹿丸出しで、ブロークンでどうしようもないが故に、最初「また会おうよ!」とのメールが来たときは、さすがに躊躇いました。
「カジュアル・ギャザリング(くだけた集まり)」だからって言われても、場が持つのか?話すネタはあるのか?不安で仕方がないわけです。
しかし、それで会わないのもなんだか失礼な気もするし、勢いに任せ!会ってきました。
彼らは京都、宇治、大阪をめぐる7泊8日の長期研修で、生徒の面倒を見る合間を縫っての会食でした。
行った先々での出来事や、泊まった旅館のこと、大阪人と京都人はどうしてこんなに違うのか?なんてことから、広東料理と日本食の類似点、お互いの趣味や仕事のことtまで、ざっくばらんにお話しし、あっという間の2時間半!でした。
しかし当然、ボキャブラリーのなさから、相当のコミュニケーションロスがあり、理解しきれなかったこと、もっと聞いてみたいことは沢山ありました。向こうもそうだと思います。
彼らは日本が面白いと言っていました。5回も6回も来ていると。相変わらず、不思議で、分からないことだらけだと。私たちが多くを語らない(語れない)からこそ、そう感じられている部分はあるのだろうと思いますが。
よく言われる、「相互に理解すること」が必ずしも大切だとは思いません。
多分理解できないんです。彼らに布団で寝ることの意味とか、多くの日本人が恥ずかしがって外人に英語で話しかけらるどころか、初対面の日本人に会うのも緊張することとか。はっきり言って意味が分からないと思います。逆も然り。
しかし、「違いを知る」ということは、価値のあることだと思うのです。
「違うこと」を知れば寛容になれます。「違いが存在すること」を理解できれば、自分の視点や、解釈の幅も広がります。何より、「違う」ことこそが面白さの本質じゃないのかと、改めて思います。
私たちは「違う」のだから、言葉を交わさなければ互いのことを知り合うことはできない。異なる背景を持った人に以心伝心を求めるのは筋違い。
ブロークンな英語から逃げずにコミュニケーションをとってみると、世界は思ったよりすぐ近くにあります。「英語なんて使わなくても生きていけるよ!」などとのたまっていた中学生の頃の自分に、このことを教えてやりたい。後悔の念とともに、改めて英語との付き合い方を考えています。